開港の歴史に深くかかわった「唐人お吉」について、現在も残るゆかりの地や幕末の史跡を、東海バスの車内でガイドが語る、お吉の一代記に沿ってご紹介させていただきたいと思います。
この、お吉の一代記は昭和初期から昭和40年代頃までは伊豆を走る路線バスの車内で語られてきたもので、今日では観光バスガイドが必ずマスターしなければいけない案内のひとつとなっています。
くしくも今年のNHKの大河ドラマ「新撰組」も、お吉が過ごした幕末を舞台とした物語です。
これを機会に、今も下田に残る語り草、開港の歴史の裏に哀しい犠牲の一生を終えた「唐人お吉」の世界を貴方も一度訪ねてみませんか? |
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幕末にペリー一行が歩いた道・
開国記念碑。あじさいの名所 |
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下田の歴史と開国の資料館 |
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日米下田条約締結の寺 |
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黒船見張り台 |
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松陰がアメリカ密航を企てた所 |
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ハリス記念館 |
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お吉の恋人、鶴松が眠る |
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お吉の営んだ小料理屋 |
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お吉、最後の地 |
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お吉の眠る寺・唐人お吉記念館 |
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唐人お吉について
下田と言えば「唐人お吉」、歌に芝居に悲劇の一生をとりあげられましたこの女性も、大正年間までは、下田宝福寺(ほうふくじ)の片隅に無縁仏として埋もれておりました。
その後、黒船時代の研究家、下田の村松春水翁(しゅんすいおう)と森 一(もりはじめ)氏などによりその生涯が明らかになり、広く世間に知られるようになりました。
お吉は本名を「斎藤きち」と申しまして、天保12年(1841年)11月10日、下田坂下町(注:実際には愛知県知多郡内海)の船大工、市兵衛(いちべえ)の二女として生まれました。
お吉が七つの時、村山せんという遊芸に優れた裕福なお婆さんに、可愛い顔立ちと綺麗な声を見込まれ、養女として貰われました。
読み書きお裁縫はもとより、踊や歌は、この人にみっちりと仕込まれたので、子供の時からお吉の芸は、下田の人の世間話にのる程でした。
昔から、芸のある町娘が好んで芸者になる下田の風習で、お吉も十四の春この道に入りました。下田芸妓の気風に合った勝気と仕込まれた芸、艶やかな姿は、たちまち下田の花とうたわれ、新内の明烏が特に上手でしたので「新内のお吉」「明烏のお吉」と呼ばれ、もてはやされておりました。
ところが、安政の大地震によって両親や養母のせんを亡くし天涯孤独の身となってしまいます。こうした時に力づけてくれたのが幼馴染の船大工鶴松で、二人は将来を誓い合う仲となったのです。
安政3年、お吉が十七の春、提督兼領事として柿先の玉泉寺(ぎょくせんじ)に駐在したアメリカ人タウンゼント・ハリスがお吉を見染めて、是非、妾にと望んだのでございます。
お吉は鶴松との約束もありキッパリとこれを断りましたが、情けに厚い役人、伊佐新次郎の武士の身分を省みない必死の説得に負け、とうとう承知をしてしまいました。
こうして開国の歴史の裏に、涙とともに咲いた花「唐人お吉」の名が生まれたのでございます。ハリス領事の、アメリカ紳士としての思いやりと、外交の苦労を見て、これにほだされたお吉のこまやかな心遣いは、領事と幕府の話し合いに、和やかな雰囲気をもたらし、それからの外交がすらすらと進みましたことは申すまでもありません。
仕えること一年、領事達の帰国後、「唐人お吉」の肩書きに世の風は冷たく、やけ酒をあおる日々が続き、その後、三島・江戸と流れて下田に戻り、料亭安直楼を営んだり髪結いなどを業としておりましたが、生来の勝気と大酒が災いして、次第におちぶれ、とうとう明治24年3月27日、下田在稲生沢川・門栗の淵に身を投げ哀れな一生を終わりました。
門栗の淵はただ今「お吉ヶ淵」と呼ばれ、新渡戸稲造博士等寄進の祠が建ち、無縁仏となっていた遺骨は、村松春水の発起により、歌舞伎・映画の名優達も参加して、立派なお墓が作られ、下田宝福寺の名所となり、いつも香華の絶えることがございません。 |
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